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乃南アサのシリーズ作品一覧
女刑事・音道貴子シリーズ(6作)
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『凍える牙』(初刊:1996年4月)
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『花散る頃の殺人』(初刊:1999年1月)
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『鎖 上』(初刊:2000年10月)『鎖 下』(初刊:2000年10月)
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『未練』(初刊:2001年8月)
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『嗤う闇』(初刊:2004年3月)
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『風の墓碑銘 上』(初刊:2006年8月)『風の墓碑銘 下』(初刊:2006年8月)
マエ持ち女二人組シリーズ(3作)
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『いつか陽のあたる場所で』(初刊:2007年8月)
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『すれ違う背中を』(初刊:2010年4月)
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『いちばん長い夜に』(初刊:2013年1月)
乃南アサのノンシリーズ(単発)作品一覧(刊行順)
『幸福な朝食』(初刊:1988年11月)

女優になる夢にすべてを懸け、華やかな世界の端で生きてきた志穂子。だが三十代半ばを迎え、仕事も恋も思い描いた場所には届かない。かつて自分を見いだした演出家との再会を機に、長く封じていた記憶が少しずつ揺り起こされていく。忘れたはずの一つの夏、身体に残る違和感、幸福そうな朝の食卓。成功を求める執念と、見ないふりをしてきた過去が静かに結びつくとき、彼女の日常は思いもよらぬ方向へ傾き始める。夢に人生を預けた女性の孤独と心の迷路を描く、著者デビュー作の心理サスペンス。舞台の光を追うほど深くなる心の影を、現在と回想を交差させながら描き、読後まで真実の重みを残す。
『ライン』(初刊:1990年8月)

深夜のパソコン通信で、大学生の小田切薫は自分と同じ名を名乗る「KAHORU」と出会う。顔の見えない相手との会話は刺激的だったが、やがて通信仲間の周囲で不審な死が相次ぎ、画面上の言葉が現実の殺意を帯び始める。高校時代の友人関係、憧れと嫉妬、胸の奥に隠した秘密。薫は過去と現在を結ぶ見えない線をたどり、匿名の世界に潜む相手の正体へ近づいていく。人と人を結ぶはずのネットワークが孤独を増幅し、善意と悪意の境界を曖昧にする恐怖を描いた、時代を先取りするサイコ・ミステリー。黎明期の通信文化を背景に、文字だけの親密さが生む錯覚と、生身の相手を知ることの難しさを突きつける。
『今夜もベルが鳴る』(初刊:1990年8月)

デザイン事務所に勤めるゆかりは、パーティーで岩谷というどこか謎めいた男と知り合う。やがて彼から電話がかかるようになり、ベルを待ち、その声に一喜一憂するうち、ゆかりは急速に心を奪われていく。だが、ある出来事を境に小さな疑念が芽生えた。岩谷はいったい何者なのか。照明、ウイスキー、集合写真――身近な品々が不穏な意味を持ち始め、恋の高揚は逃げ場のない恐怖へと姿を変える。電話の向こうにいる相手を信じたい思いと、真実を知る怖さがせめぎ合う、疾走感あふれる長篇サスペンス。受話器越しの声しか知らない恋だからこそ膨らむ想像と不信が、読み手を最後まで翻弄する。
『6月19日の花嫁』(初刊:1991年2月)

交通事故で記憶を失った千尋が覚えていたのは、一週間後の六月十九日に自分が結婚するということだけだった。ところが、肝心の婚約者の顔も名前も思い出せない。周囲の言葉を頼りに準備を進めるほど、過去の自分と現在の自分の間に説明のつかないずれが広がっていく。誰が味方で、誰の記憶を信じればよいのか。迫る挙式の日、断片的な映像と違和感の奥から、千尋が忘れていた事実が輪郭を現し始める。失われた記憶をめぐる謎と、幸せな花嫁像の裏側に潜む危うさを描く心理ミステリー。結婚という約束が希望にも脅威にも見える中、千尋は失われた自分自身を選び直そうとする。
『殺意はないけど』(初刊:1991年8月)

高校時代に仲のよかった四人の女性が、十年の時を経て再び集う。裕福な家庭の妻となった元アイドルの明子、タウン誌編集者の由紀、地方局のアナウンサー、劇団で働く玲子。それぞれ別の道を歩んできたはずが、明子の芸能界復帰をきっかけに、写真へ開けられた穴や割れたガラスなど不気味な贈り物が届き始める。懐かしい友情の下に沈んでいた競争心、劣等感、言えなかった恨み。笑顔で再会した四人の過去がほどけるにつれ、悪意の送り主をめぐる疑いは深まっていく。女友達の複雑な感情を鋭く描く心理サスペンス。成功したように見える人生の裏側を互いに比べてしまう痛みが、再会の華やかさを不穏に染めていく。
『ヴァンサンカンまでに』(初刊:1991年10月)

アパレル会社に入った中江みどりは、二十五歳までに人生を思い通りに整えたいと考えている。将来有望な上司との危うい関係を続けながら、同僚の章一郎とも付き合い、恋を自分が主導するゲームのように楽しんでいた。仕事も結婚も手に入れるつもりだった彼女の周囲で、別の社内恋愛が思わぬ事件へ発展する。軽やかに見えた関係の裏にある打算、嫉妬、取り返しのつかない傷。期限を決めて幸せを急ぐみどりは、自分の選択が生んだ現実と向き合うことになる。若さの焦りと恋愛の残酷さを描いた長篇サスペンス。自立を望みながら他人の評価から逃れられない若い女性の現実を、企業社会の空気とともに映し出す。
『トゥインクル・ボーイ』(初刊:1991年12月)

美しい笑顔を向ければ、大人たちは喜び、欲しいものは何でも手に入る――小学生の拓馬は、周囲の期待を敏感に読み取り、愛らしい「よい子」を演じて暮らしている。だが、その無邪気さの裏には、大人が見ようとしない冷静な計算と孤独があった。表題作をはじめ、学校や家庭の中で行き場を失い、思いもよらぬ顔をのぞかせる少年少女たちを描く七つの物語。子どもは本当に純真で、大人は本当に成熟しているのか。小さな心に積もる欲望、嫉妬、傷を通して、子どもの世界の危うさを見つめる心理短編集。大人の都合を映す鏡でもある子どもたちの行動は、かわいさだけでは片づけられない問いを残す。
『鍵』(初刊:1992年1月)
両親を相次いで失い、兄姉との関係もうまく結べずにいる高校生の麻里子。ある日、彼女の鞄の隙間に見覚えのない鍵が差し込まれていた。誰が、何のために入れたのか。近所では通り魔事件が続き、ついには人命が奪われ、正体不明の鍵は不穏な出来事とのつながりを感じさせる。耳が不自由な麻里子の沈黙を、家族はどこまで理解できるのか。孤立しながらも真相を求める少女と、彼女を支えきれずに戸惑う兄姉。それぞれの視点を通して、家族のすれ違いと心が通う瞬間を描く、切実な青春ミステリー。静かな少女の視点が、音のある側の思い込みを照らし、事件の緊張と家族再生の物語を結びつける。
『紫蘭の花嫁』(初刊:1992年2月)

花屋で働く三田村夏季は、「あいつから逃げなければ」と、執拗に追ってくる男の影に怯えながら逃亡を続けている。同じ頃、神奈川県内では女性を狙った不可解な連続暴行殺人事件が発生し、刑事部長の小田垣は手がかりの乏しい捜査に苦しんでいた。追う者、追われる者、事件を追う者。それぞれの思惑が交差するにつれ、夏季が抱える恐怖と連続事件の間に見えない糸が浮かび上がる。彼女はなぜ逃げ、男はなぜ追うのか。緊張感の高い逃走劇と巧みな心理描写で、花嫁をめぐる秘密へ迫る長篇ミステリー。題名に秘められた紫蘭と花嫁のイメージが、夏季の記憶と事件を結ぶ鍵として妖しく揺らめく。
『5年目の魔女』(初刊:1992年3月)

五年前のつまずきを乗り越え、圭子はインテリアデザイナーとして新しい一歩を踏み出そうとしていた。ところが、忘れた頃に電話が三度鳴り、封じたはずの過去が日常へ戻ってくる。かつての職場、不倫をめぐる傷、別々の人生を歩み始めた女たち。些細な連絡に見えたものは次第に執拗さを増し、圭子の仕事と人間関係を静かに侵食していく。五年という時間は恨みを薄めたのか、それとも熟成させただけなのか。幸せを取り戻そうとする女性を待ち受ける悪意と、過去から逃れられない怖さを描く長篇心理サスペンス。脅威が現実なのか心の生んだ影なのか分からない感覚が続き、読むほどに足元の確かさを失わせる。
『水の中のふたつの月』(初刊:1992年9月)

忙しい毎日を送る会社員の亜理子に、十年以上会っていなかった幼なじみの恵美から突然連絡が入る。かつて親密だったもう一人を交え、三人は久しぶりに顔を合わせるが、懐かしさの底から子ども時代の記憶と、誰にも話せなかった秘密が浮かび始める。同じ出来事を見たはずなのに、三人の語る過去は少しずつ違う。友情に隠された支配と嫉妬、罪悪感が現在の暮らしへ影を落とし、再会は思わぬ緊張を帯びていく。水面に映る二つの月のように揺らぐ記憶と人間関係を描く心理ミステリー。少女時代の無垢な結びつきが大人になって別の意味を持つ怖さと、それでも消えない情を掘り下げる。
『パラダイス・サーティー 上』(初刊:1992年11月)

薬品会社で働く栗子は、三十歳を目前に職場ではお局扱いされ、見合いにも断られ、家族の身勝手さにも疲れ果てていた。家を出た彼女が転がり込んだのは、幼なじみで、女性を愛する菜摘の部屋。菜摘の営むバーで常連客の古窪伸を紹介された栗子は、一目で恋に落ちる。二人の距離は急速に縮まり、栗子は結婚を夢見るが、伸の態度はなぜか煮え切らない。一方の菜摘にも思いを寄せる女性が現れる。理想の恋をつかみたい二人の期待と不安が交錯する、切なくも快活なラブ・サスペンス上巻。恋愛も年齢も型にはめない菜摘との共同生活が、栗子に自分の幸福を問い直すきっかけを与える。
『パラダイス・サーティー 下』(初刊:1992年11月)

栗子が信じたい恋人・伸は姿を消し、その素性には次々と疑わしい点が浮かんでくる。菜摘もまた、思いを寄せる紘子との関係が進まず悩んでいたが、偶然目にした映像から、伸が性風俗の商売に関わっているらしいと知る。栗子は周囲を調べ、菜摘は友を守ろうと動き出すものの、二人の恋は次第に事件の様相を帯びていく。愛する相手を信じることと、見たくない現実を直視すること。三十代を迎える二人が、自分らしい幸せを求めて予想外の真相へ近づく、痛快でほろ苦いラブ・サスペンス下巻。恋の失敗を単なる敗北にせず、友情と自立へ変えていく二人のたくましさが物語に明るい力を添える。
『家族趣味』(初刊:1993年8月)

夫と中学生の息子を持ちながら、家庭も仕事も自分の「趣味」にすぎないと言い放ち、若い男との関係を追い求める女。宝石への執着に心を奪われる者、尊敬されていた管理職から思いがけない顔を見せる男――。一見平穏な暮らしを送る人々の欲望が、身近なきっかけで均衡を失っていく五つの物語を収録する。家族だから分かり合えるという思い込み、社会人らしい外面、その下に潜む身勝手さと孤独。日常のささやかな違和感が笑えない結末へ転じる瞬間を、冷徹さと可笑しみを交えて描くブラックな心理短編集。極端に見える登場人物の姿に、どの家庭にもある打算や見栄が映り込み、笑いの後に寒さが残る。
『暗鬼』(初刊:1993年12月)

法子が嫁いだのは、四世代が一つ屋根の下で暮らすにぎやかな大家族だった。誰もが親切で結束も強く、理想的に見える暮らしに戸惑いながらも、彼女は新しい家族の一員になろうと努める。ところが近所で起きた男女の心中事件をきっかけに、家族の言葉や振る舞いに小さな不自然さを感じ始める。秘密を共有するような視線、よそ者を拒む気配。疑う自分がおかしいのか、それとも家族が何かを隠しているのか。親密さが逃げ場のない圧力へ変わっていく恐怖と、疑心暗鬼に揺れる新妻の心理を濃密に描いた長篇サスペンス。家庭内の視線だけで世界が閉じていく息苦しさが、法子の感覚とともに読者の判断まで揺さぶっていく。
『団欒』(初刊:1994年1月)

深夜、息子が恋人の死体を連れて帰ってきた。夫婦の寝室には、いつの間にか妻の母親が入り込んでいた――。近すぎるからこそ互いを分かったつもりになり、実は誰よりも理解していない「家族」の奇妙さを描く物語集。親子、夫婦、兄弟姉妹が守ってきた日常は、突拍子もない出来事を境にあっけなく形を変える。助け合いと束縛、愛情と嫌悪、秘密と体面が絡まり、温かなはずの団欒に黒い笑いと恐怖がにじむ。わが家だけは普通だという安心を軽やかに覆す、風変わりな家族たちの心理サスペンス短編集。常識外れの出来事を乾いた語りで描くことで、血縁への依存と家族を演じることの滑稽さが際立つ。
『再生の朝』(初刊:1994年3月)

十月七日午後五時半、品川を出た萩行きの夜行高速バス。乗客と乗務員十二人を乗せ、約十四時間で目的地に着くはずだった。だが深夜、乗務員が殺され、閉ざされた車内には犯人が紛れたまま残される。台風の接近で風雨は激しさを増し、バスは行き先も定まらぬ闇へ投げ出されていく。帰郷する者、人生をやり直そうとする者、それぞれの事情を抱えて偶然乗り合わせた人々は、疑いと恐怖の中で夜明けを待つ。走る密室を舞台に、多視点で極限の一夜と人間の再生を描く異色の長篇サスペンス。限られた空間と時間の中で人物の過去が次々に開かれ、誰を信じるかという緊張が朝まで途切れない。
『風紋 上』(初刊:1994年10月)

女子高校生の真裕子は、母を突然奪われる。逮捕されたのは、学校で教える一人の教師だった。被害者の家族は喪失と世間の視線にさらされ、犯人とされた男の妻・香織もまた、夫の無実を信じたい思いと疑念の間で揺れる。一つの殺人は、無関係だった二つの家庭の日常を同時に壊し、残された子どもたちの将来に深い影を落としていく。なぜ母は殺され、夫は何を隠しているのか。事件の衝撃だけでなく、被害者側と加害者側それぞれの痛み、家族の絆が崩れる過程を丁寧に追う社会派長篇、その上巻。事件報道の向こうで続く生活を多角的に見つめ、罪を犯した本人だけでは終わらない犯罪の波紋を問う。
『風紋 下』(初刊:1994年10月)

母を失った真裕子と、夫が殺人容疑で裁かれる香織。事件によって結びつけられた二つの家族は、裁判が進むにつれて世間の好奇の目や互いへの憎しみ、自分自身への疑いに追い詰められていく。法廷で語られる事実は、残された者たちが知っていた家族の姿を少しずつ塗り替える。それでも生きていかなければならない子どもたちを、周囲の大人はどう守れるのか。犯罪が終わった後にも続く長い苦しみと、壊れた日常を立て直そうとする人々の姿を、被害者・加害者双方の家族の視点から描く社会派長篇下巻。真相だけを結末にせず、知った後にどう生きるかへ焦点を移すことで、題名の「風紋」が深い余韻を刻む。
『死んでも忘れない』(初刊:1995年10月)

妻と息子と暮らし、もうすぐ新しい家族を迎えるはずの平凡な会社員。ある朝、彼が関わったささやかな出来事を境に、穏やかだった家庭の歯車が狂い始める。本人には一時の判断だったことが、妻の不安や周囲の疑念を呼び、隠そうとするほど新たなほころびを生んでいく。愛しているから言えないことと、知らないままではいられないこと。過去の記憶と現在の嘘が絡み合い、夫婦と親子の信頼は少しずつ試されていく。日常に潜む罪悪感が家庭を侵食するさまを通して、人は何を忘れ、何を背負うのかを問う心理サスペンス。守るための沈黙がかえって大切な人を遠ざける皮肉を通し、夫婦の信頼が持つ脆さと強さを見つめる。
『殺意・鬼哭』(初刊:1996年6月)

一つの殺人をめぐり、加害者と被害者、それぞれの側から胸の内を語らせる二つの中篇を収める。「殺意」では、なぜ自分が人を殺すところまで追い詰められたのか、犯した者の言葉が過去をさかのぼる。「鬼哭」では、なぜ自分は殺されなければならなかったのか、失われた側の人生と悔いが浮かび上がる。同じ出来事も立つ場所が変われば、正しさや痛みの形はまるで違って見える。犯罪の表面だけでは捉えられない欲望、孤独、すれ違いを二つの告白から照らし、人を裁くことの難しさを突きつける心理サスペンス。どちらか一方の物語に安住できない構成が、理解と赦しは同じではないという重い問いを残す。
『ドラマチックチルドレン』(初刊:1996年6月)

富山市郊外にある「ピースフルハウス・はぐれ雲」は、登校拒否や非行など、さまざまな問題を抱えた子どもたちを預かる共同生活の場。主宰する川又夫妻のもとへ、無断外泊やシンナーを経験した中学三年生の恵がやってくる。新しい環境に反発する彼女は古株の少女と衝突し、施設には緊張が走る。大人を信じられない子どもたちと、簡単な答えを押しつけずに向き合う人々。共同生活の喜びと苦しみを追いながら、傷ついた少年少女が自分の居場所と明日を探す姿を描いた、丹念な取材に基づく感動の記録。子どもを問題行動だけで判断せず、その背後の家庭と社会まで見ようとする記録が、安易な同情を退ける。
『幸せになりたい』(初刊:1996年8月)

結婚を望む会社員の依田は、家庭的な雅美と、奔放で身体の相性もいいキリエの間を行き来していた。妻に選ぶなら雅美、だがキリエとも別れたくない。都合のよい未来を思い描く彼が、結婚式の前夜にキリエの部屋を訪れたとき、甘い計算は思わぬ罠へ転じていく――表題作をはじめ、幸せを求める男女の心に潜む執着や打算を描く七篇を収録。恋、仕事、家庭のささやかな不満が、ある一線を越えた瞬間に日常を反転させる。人は幸福のためにどこまで他人を傷つけられるのかを鋭く問う心理サスペンス短編集。幸せを外から与えられるものと考える危うさを、男女の可笑しくも切迫した選択から浮かび上がらせる。
『結婚詐欺師 上』(初刊:1996年9月)

橋口雄一郎は、鬘や服装、職業、車まで使い分け、別人になりすまして女性へ近づく四十代の結婚詐欺師。相手の孤独と結婚願望を読み取り、巧みな話術で信頼を得ては金を奪っていた。一方、小滝橋署の刑事・阿久津は、一件の被害届から素人ではない犯行の匂いを嗅ぎ取る。前科者の松川学が捜査線上に浮かぶころ、橋口はゴルフ練習場で次の標的となる女性を見つけていた。なぜ被害者たちは男を責めきれないのか。騙す男、信じたい女、追う刑事の心理を交互に描く長篇サスペンス上巻。橋口の鮮やかな変身と阿久津の地道な追跡が並行し、知能犯を追う捜査の緊迫感を高めていく。
『結婚詐欺師 下』(初刊:1996年9月)

ゴルフ練習場で橋口に声をかけられた江本美和子は、強引な誘いに戸惑いながらも次第に心を許していく。捜査を続ける阿久津たちは、前科者の松川と橋口が同一人物だと突き止めるが、被害女性の中に阿久津のかつての恋人・美和子がいることが判明する。しっかり者だった彼女が、なぜ男の言葉を信じたのか。追跡が迫る一方、橋口と美和子の関係にも変化が生まれる。結婚をめぐる孤独と期待、騙す側にもある空洞を丹念にすくい取り、現代の愛と結婚観を問いかける長篇サスペンス下巻。被害額だけでは測れない心の傷と、女性たちが求めたものを描くことで、単純な勧善懲悪を越えていく。
『氷雨心中』(初刊:1996年10月)

酒蔵で働く青年は、祖父が発酵タンクへ落ち、見知らぬ女とともに亡くなった過去を知る。やがて彼は恋人を蔵へ案内するが、古い死の記憶は思わぬ影を落とす――表題作をはじめ、能面、香、染色、提灯など、日本の手仕事に携わる人々を描く六つの物語。美しい品を生み出す職人の誇りの裏で、家族の秘密、恋の執着、嫉妬が静かに積もり、逃れがたい悲劇を招いていく。受け継がれる技と土地の匂いを鮮やかに映しながら、人の心に宿る暗い情念を冷たい雨のような余韻で包む、工芸を主題にした心理サスペンス短編集。ものを作る手の清らかさと、それを扱う人の情念の対比が、各篇に濃密な美しさと怖さを与える。
『窓』(初刊:1996年12月)

高校生活の終わりを前に、耳の聞こえない麻里子は進路と将来への不安を抱えている。そんな折、毒物入りジュース事件の容疑者として、同じ聴覚障害を持つ少年の存在を知る。自分なら彼の孤独を理解できるかもしれないと考えた麻里子は、周囲の心配をよそに少年へ近づくが、期待した共感は拒絶に変わる。見える世界と聞こえない世界の間にある「窓」を、誰とどう開けばよいのか。事件の謎を追いながら、家族に守られることへの反発と、自分の足で歩きたい少女の成長を描く、『鍵』に続く青春ミステリー。言葉以外にも人を理解する道がある一方、同じ障害があっても心は同じではないという現実を誠実に描く。
『悪魔の羽根』(初刊:1997年1月)

日本人銀行員と結婚し、故郷フィリピンから九州へ来た女性。夫の転勤で雪深い新潟へ移ると、言葉も風土も異なる孤独の中で心を病み、愛情はやがて激しい憎しみへ変わっていく。ほかに、早春の土地で起きる不可解な失踪など、季節の風景に人間の暗部を映す七篇を収録。善意のつもりの言葉、家族だからという甘え、異文化への無理解が、弱った心に鋭い傷を残す。ふと舞い落ちた羽根のような小さな兆しから、日常に潜む悪意と破局を浮かび上がらせる、冷たい余韻に満ちた心理サスペンス短編集。気候と文化の違いを背景に、善意だけでは埋まらない隔たりと、孤立した心が見せる反転を鋭く捉える。
『来なけりゃいいのに』(初刊:1997年8月)

長年会社を支えてきたベテラン社員の泰子は、機械化で役割を失い、若い同僚からも疎まれていると感じていた。新人教育を任され、居場所を取り戻そうと懸命になるほど、胸の奥に押し込めた焦りと怒りが膨らんでいく――「春愁」をはじめ、職場や恋愛、家庭で行き詰まる女性たちを描く七篇を収録。頼られたい、愛されたい、認められたいという切実な願いが、何気ない一言によって危うい衝動へ姿を変える。働く女性の日常に潜む孤独と狂気を、鋭い観察と共感を交えて描いた心理サスペンス短編集。時代や職場の変化に置き去りにされる不安をすくい取り、誰もが加害者にも被害者にもなりうると示す。
『花盗人』(初刊:1998年3月)

毎日の暮らしに欠かせない薬缶、寝言、向日葵、愛情弁当、留守番電話――身近なものをきっかけに、夫婦や恋人、家族の関係が思いもよらぬ顔を見せる九つの物語。善意で作った弁当に込めた期待、帰らない相手を待つ時間、他人の背広が呼び起こす疑念。小さな違和感を見過ごした人々は、やがて自分の内側に潜んでいた嫉妬や執着と向き合うことになる。花を盗むように誰かの幸せを奪うのは、特別な悪人とは限らない。平穏な日常のすぐ隣にある心の罠を、静かな恐怖と皮肉で描く心理サスペンス短編集。題材の多彩さと切れ味のある結末によって、人間関係のほころびを覗き見るような読書の愉しみが続く。
『冷たい誘惑』(初刊:1998年4月)

酔って新宿・歌舞伎町で友人とはぐれた主婦の織江は、家出少女から一万円で怪しい包みを受け取る。中に入っていたのは一挺のコルト拳銃だった。手にした者へ力の錯覚を与える銃は、少女から織江へ、さらにカラスに悩む新入社員や、妻に去られた元警察官へと渡り、平凡な人生に眠っていた怒りや欲望を目覚めさせていく。引き金を引くか、思いとどまるか。冷たい金属を媒介に、それぞれの物語がつながる連作短編集。日常から犯罪へ踏み出す一瞬と、甘く危険な誘惑にさらされた人間の弱さを描く。銃を手にする順番が変わるたび、同じ道具が人によって異なる夢と破滅を映す構成も読みどころ。
『夜離れ』(初刊:1998年5月)

冷房の温度をきっかけに恋人との距離を測る女、祝辞に込められた本音に揺れる新婦、夜の底で過去の関係を思い返す者――。恋愛や結婚の中に生まれる、言葉にしにくい心のずれを描いた六篇を収録する。好きだから近づきたいのに、近づくほど相手の知らない顔が見えてくる。髪や枕の香りといった親密な記憶は、愛情の証しにも、逃れられない執着にもなる。恋の終わりを認められない人々の孤独と、自分を守るために誰かを傷つけてしまう危うさを、静かな緊張と余韻で包んだ心理サスペンス短編集。女性たちの選択を断罪せず、そのとき確かにあった切実さをすくい取る語りが、苦い共感を呼び起こす。
『不発弾』(初刊:1998年11月)

デパートに勤める的場智明は、刺激のない仕事と家庭にうんざりしていた。ところが、妻や子どもが自分に隠し事をしていると気づき、鬱屈を晴らそうと行動を起こす。小さな不満は本人も予想しなかった方向へ膨らみ、平凡な暮らしの足元に埋まっていた「不発弾」が動き始める――表題作を含む六篇。夫婦、親子、職場の同僚など、ごく普通の人々の胸に蓄えられた怒りや嫉妬が、何気ないきっかけで爆発寸前まで高まっていく。誰の心にもある危うい火種を、鋭い心理描写で追うサスペンス短編集。爆発が起こるかどうかより、その直前まで何食わぬ顔で暮らす人間の不気味さが強い緊張を生む。
『ピリオド』(初刊:1999年5月)

離婚後、フリーカメラマンとして一人で暮らす宇津木葉子のもとへ、大学受験を控えた甥と、その妹が転がり込んでくる。静かだった生活に若い二人の気配が加わる一方、葉子は妻子ある杉浦との関係を続けていた。そんな折、杉浦の妻が殺され、秘密にしてきた恋と身近な人間関係が思わぬ形で揺さぶられる。誰かと暮らす煩わしさ、孤独に戻る怖さ、終わらせるべき関係への未練。事件の謎を背景に、日常に倦んだ女性が自分の人生へ一つの区切りをつけるまでを静かに描く長篇小説。甥と姪との不慣れな共同生活が葉子へ思わぬ温度をもたらし、止まっていた時間を少しずつ動かしていく。
『軀 KARADA』(初刊:1999年9月)

女性の膝に異様なこだわりを持つ男、怪しげな育毛剤を試す若者、自分の尻がアヒルのようだと思い悩む女子生徒――。身体の一部へ向けた執着や劣等感が、本人の意識を超えて膨らんでいく五つの物語。もっと美しくなりたい、失ったものを取り戻したい、他人の身体を自分のものにしたい。切実な願いに応えるかのように、身体はある日、静かな反逆を始める。見慣れたはずの自分の軀が最も近い他者へ変わる恐怖と、外見に支配される心の危うさを、奇妙な可笑しみと戦慄で描くボディ・ホラー短編集。怖さの源を怪異だけに置かず、他人の視線を内面化してしまう現代人の心に見いだす点も鮮烈だ。
『ダメージ そこからはじまるもの』(初刊:1999年11月)

恋人との関係、友人との距離、仕事への迷い、将来の見えなさ。二十代の女性たちが抱える悩みを、二十の率直な声からすくい取るモノローグ集。傷つけられた記憶を消せなくても、その痛みを抱えた自分まで否定しなくていい。誰にも見せられなかった嫉妬や情けなさ、強がりを言葉にするうち、立ち止まっていた心に新しい景色が開けてくる。小説とエッセイの間を行き交うような語りで、恋や友情の「ダメージ」を人生の終わりではなく出発点として捉え直す、同世代への共感と励ましに満ちた一冊。読者へ静かに話しかけるような言葉が、答えを与えるのではなく、自分の傷を見つめる勇気をそっと支える。
『好きだけど嫌い』(初刊:2000年4月)

いたずら電話の相手へ説教した記憶、女優の名前を銭湯と聞き違えた失敗、五百円玉を貯めて五十万円の借金を返した日々。美容院の対応に腹を立てても文句を言えず、タクシー運転手から「諦めないで書くんだよ」と励まされる。仕事や暮らしに振り回されながら精一杯だった著者の三十代を、本音とユーモアで振り返る二十三篇。好きなのに腹が立つ人や物、自分自身への愛憎を飾らず語り、失敗も迷いも生きる力へ変えていく。大人になりきれない心へまっすぐ寄り添うエッセイ集。格好よく見せない語り口だからこそ、作家になるまでの日々と働く女性の実感が、身近な声として響く。
『行きつ戻りつ』(初刊:2000年5月)

冷え切った夫婦関係、姑との確執、息子を失った悲しみ、受験を控えた子どもへの焦り、家計の不安、誰にも言えない待ち合わせ。家庭の悩みに息を詰まらせた妻たちは、それぞれ旅へ出る。見知らぬ土地の風景や、偶然出会った人との何気ない会話が、固く閉じた心を少しずつほぐしていく。家へ戻れば問題が消えるわけではない。それでも、一度離れたからこそ見える家族の姿と、自分が本当に望んでいたことがある。迷いながら行きつ戻りつする女性たちの再出発を、温かな眼差しで描く家族小説短編集。旅先の食事や景色を通して、他人の人生に触れる小さな偶然が人を救うこともあると感じさせる。
『涙 上』(初刊:2000年11月)

東京オリンピック開会式の前日、挙式を目前にした萄子へ、刑事の婚約者・奥田勝から「もう会えない」と電話が入る。直後、勝の先輩刑事の娘が惨殺され、彼自身も失踪していたことが分かる。事件と勝の行方はつながっているのか。周囲が口を閉ざす中、萄子は婚約者を信じ、わずかな手がかりを頼りに一人で足取りを追い始める。高度成長と五輪の熱気に包まれた一九六〇年代の日本を舞台に、愛する人の知らない顔と向き合う女性の旅を描く、切実な純愛ミステリー上巻。萄子の目を通して、華やかな国家行事の裏にある庶民の暮らしや当時の旅の手触りも克明に描かれる。
『涙 下』(初刊:2000年11月)

失踪した婚約者・勝を追う萄子は、川崎、熱海、焼津、田川と各地を訪ね、過去の証言を一つずつつないでいく。警察の捜査では事件の重要人物が浮かぶが、勝が姿を消した理由は依然として分からない。信じ続ける気持ちが折れそうになる中、当時アメリカ統治下にあった沖縄・宮古島に勝がいる可能性を知り、萄子はさらに海を渡る。台風が迫る島で彼女を待つものは何か。五輪に沸く本土の陰にあった時代の傷を背景に、一途な愛と悲劇の真相へ迫る純愛ミステリー下巻。各地を巡る追跡そのものが、愛する相手の過去と時代の暗部を知る旅になり、物語に厚い余韻を残す。
『チカラビトの国』(初刊:2001年6月)
大相撲の世界を支えているのは、土俵上の力士だけではない。取組を裁く行司、進行を担う呼出し、髪を結う床山、部屋を切り盛りするおかみさん。土俵はどう造られ、鬢付け油はなぜあの香りがし、ちゃんこはどのように受け継がれるのか。著者が稽古場や本場所の裏側を歩き、独特の伝統と共同体で生きる人々の声を丁寧に拾う。華やかな勝負の陰にある技、誇り、厳しさ、愛情を、好奇心と敬意をもって描いた相撲紀行エッセイ。角界を一つの「国」として眺め、その奥深い文化へ案内する。普段は見えない裏方の専門技術を知るほど、一つの取組を成立させる共同体の大きさが伝わってくる。
『あなた 上』(初刊:2003年2月)
二浪目に入った秀明は、明るく要領のよい浪人生。女子大生の恋人と携帯メールを交わし、受験への不安も軽口でやり過ごしていた。だが元日の未明、胃を握り潰されるような吐き気と、何者かに押さえつけられる感覚に襲われる。それ以来、どこへ行っても自分を見つめる「目」の気配が離れない。偶然なのか、誰かの執着なのか。周囲には理解されない恐怖が、恋愛や勉強の日常へ少しずつ入り込んでいく。見えない視線に追われる青年の青春と孤独を描く、切なく不穏な長篇ホラー上巻。若者らしい軽さと切実な恐怖の落差が、日常のすぐそばに説明不能なものがいる感覚を際立たせる。
『あなた 下』(初刊:2003年2月)

大学生になった秀明は、美しい音大大学院生のカンナと出会い、初めて本気の恋に落ちる。だが、長く自分を追い続けてきた不気味な「目」は、今度はカンナへ狙いを広げる。姿の見えない存在に怯える彼女を守るため、秀明は逃げてきた恐怖と向き合う決意をする。どこにいても見られている圧迫感の正体は何なのか。愛するほど相手を危険へ巻き込むという苦しみの中で、届かない思いと執着の行方が重なっていく。恋の切なさと超自然の恐怖を結びつけた青春ホラー下巻。守りたいという願いが新たな危険を招く中、秀明の成長と、視線の主が抱える哀しみが重なっていく。
『晩鐘 上』(初刊:2003年5月)

『風紋』の事件から七年。母を殺された真裕子は大学を卒業し、傷を抱えたまま家を離れる。一方、加害者の子どもである大輔と絵里は、父の罪を知らず長崎の祖父母のもとで暮らしていた。かつて事件を追った記者・建部も長崎へ赴任し、そこで新たな殺人に遭遇する。過去を忘れたい家族と、何も知らずに成長した子どもたち。別々に続いていた人生は、土地を移した事件によって再び近づき始める。犯罪の後を生きる人々の長い歳月と、新たな悲劇の兆しを描く社会派長篇上巻。七年という時間が傷を癒やすとは限らない現実を、成長した子どもたちと親世代の両方から丁寧に見つめる。
『晩鐘 中』(初刊:2003年5月)

長崎で起きた中学生による傷害致死事件を取材する記者・建部は、葬儀の場で香織と思いがけず再会する。かつて殺人犯の妻として世間にさらされた彼女は、今度は被害者側の家族としてそこにいた。母を奪われた真裕子もなお過去の影から逃れられず、父の罪を知らない大輔と絵里の暮らしにも変化が訪れる。加害者と被害者という線引きは、時がたてば単純ではいられない。二つの事件と家族の縁が重なり、遺された者たちの選択が問われていく。『風紋』から続く社会派長篇中巻。同じ人が立場を変えて再び犯罪に巻き込まれる皮肉が、報復では解けない家族の痛みを浮き彫りにする。
『晩鐘 下』(初刊:2003年5月)

母を失った真裕子、罪を犯した男の元妻・香織、父の過去を知らず育った大輔と絵里、そして事件を見つめ続ける記者・建部。長崎で起きた新たな死を機に、それぞれが隠してきた記憶と家族の秘密が、一つの場所へ集まり始める。真実を知らせることは救いなのか、それとも新しい傷になるのか。被害者と加害者の家族という立場を越え、次の世代へ何を渡すのかが問われる。犯罪後の人生に終わりはあるのかを見つめ、憎しみの連鎖と再生への細い道を描く社会派長篇完結巻。長い物語を通して積み重なった人物の感情が響き合い、題名の晩鐘のように静かで重い読後感を残す。
『女のとなり』(初刊:2003年9月)

「好」「妬」「姉」「妻」など、女偏を持つ漢字を手がかりに、女性のさまざまな顔と、その隣にいる人々を見つめる二十四篇。恋愛、結婚、仕事、年齢、友情。身近な出来事や出会った女性たちの姿から、漢字に刻まれた古い価値観と現代の本音を軽やかに行き来する。女らしさを求められる窮屈さも、同性同士の厄介な感情も、笑い飛ばせない現実として率直に語る一方、思い込みをほどくユーモアも忘れない。言葉を入口に、自分らしく生きることと、人と隣り合うことの面白さを考えるエッセイ集。漢字の成り立ちへの驚きと身辺雑記を結ぶ文章から、女性を取り巻く時代の変化も自然に見えてくる。
『火のみち 上』(初刊:2004年8月)

戦後、満洲から引き揚げた南部次郎は、父を戦争で失い、貧困の中で母も亡くす。幼い妹を守ろうとするあまり事件を起こし、兄妹は引き離され、次郎は刑務所へ送られる。怒りと絶望に荒れる彼の心を鎮めたのは、土と炎から生まれる備前焼だった。黙々と土を練り、窯の火と向き合ううち、次郎は初めて自分の進む道を見いだしていく。一方、離れた妹もまた別の人生を歩き始める。敗戦後の混乱と再生を背景に、焼き物へ人生を懸ける兄と妹の運命を描く長篇上巻。土を形にして焼き上げる工程が、怒りを抱えた次郎自身を作り直す再生の比喩として力強く響く。
『火のみち 下』(初刊:2004年8月)

刑務所で備前焼に出会った次郎は、出所後、自らの窯を築くため土と炎へ没頭していく。離れて育った妹は女優の道を進み、互いを思いながらも、二人は公に兄妹と名乗れない距離を抱えていた。やがて次郎は、中国・宋代に生まれた幻の青磁「汝窯」に魅せられ、その美を再現しようとする。手の届かない理想を追う情熱は、職人としての誇りと人生そのものを激しく揺さぶる。戦後を生き抜いた兄妹の再会と葛藤、陶工の執念を、東アジアの歴史と焼き物の美を背景に描く長篇下巻。芸術の理想と人としての幸福が必ずしも重ならない厳しさが、次郎の創作と兄妹の絆を深く試していく。
『二十四時間』(初刊:2004年9月)

一日の時刻に重ねるように、人生の断片を二十四の物語へ刻んだ作品集。会うたび姿を変えた幼なじみの「よっちゃん」は、詰め襟の中学生から暴走族の高校生、恋する浪人生になっても、内面の温かさを失わない。雪の帰り道で方向感覚をなくし、「遠く」という寂しい場所へ迷い込んだ子どもの記憶もよみがえる。家族、友人、恋、旅立ち。過ぎた時間の匂いや光を短編映画のように切り取り、忘れたくない人々を静かに描く。私小説の味わいと郷愁に満ちた、切なく大切な二十四の記憶。一篇ごとの短さの中に時間の流れと人生の広がりが凝縮され、読む側の記憶までそっと呼び覚ます。
『しゃぼん玉』(初刊:2004年11月)

女性や老人を狙って強盗を重ねてきた青年・伊豆見翔人は、逃亡の末、宮崎の山深い村へ迷い込む。そこで出会った老婆は、彼を孫と取り違え、疑うことなく家へ迎え入れる。正体を隠したまま居ついた翔人は、畑仕事や山の暮らし、祭りの準備を通して、損得抜きで接する村人たちの温かさに戸惑う。奪うことでしか生きられなかった若者の心に、これまで知らなかった罪悪感と居場所への願いが芽生えていく。過去から逃げることと償うことの間で揺れる青年の再生を、山里の四季とともに描く長篇小説。村人の善意を美化するだけでなく、それを受け取ることに慣れない翔人の戸惑いを丹念に追う。
『いのちの王国』(初刊:2007年12月)
旭山動物園や沖縄美ら海水族館をはじめ、全国十八の動物園・水族館を訪ね、そこに暮らす生きものと飼育する人々を見つめる紀行エッセイ。動物の個性を引き出す展示の工夫、病気や出産に向き合う緊張、言葉を交わせない相手との間に育つ信頼。華やかな人気者の陰で続く地道な世話や、命を預かる覚悟を、現場の声から丁寧に伝える。人間の都合だけでは測れない動物たちの時間に触れるうち、見る側の価値観も揺さぶられていく。命が共に生きる「王国」の豊かさと厳しさを描いた一冊。動物をかわいい存在として消費するのではなく、老いと死まで含む一つの命として向き合う姿勢が貫かれる。
『ウツボカズラの夢』(初刊:2008年3月)

高校を卒業した未芙由は、母を失ったのを機に、東京に住む親戚の鹿島田家へ身を寄せる。裕福で何不自由なさそうな一家だが、夫婦も親子も互いに無関心で、家の中には奇妙な空白が広がっていた。行き場も財産もない未芙由は、家族それぞれの弱みと満たされない欲望を見抜き、自分の居場所を作ろうと静かに動き始める。待つだけでは幸せは手に入らない。養分を求めて獲物を誘うウツボカズラのように、したたかに他人の隙へ根を張る少女の野心と、崩れかけた家庭の変化を描く長篇心理小説。受け身に見えた未芙由の観察と選択が家族の力関係を変え、善悪だけでは測れない読後感を残す。
『ミャンマー 失われるアジアのふるさと』(初刊:2008年6月)
軍政下で揺れるミャンマーを歩き、町や村で暮らす人々の素顔を写真と文章で記録した紀行エッセイ。家族で囲む食卓、寺院と祭り、公園に集う若者たち。厳しい政治状況の中にも、どこか懐かしいアジアの暮らしと、初対面の旅人を迎える温かさが息づいている。失われつつある風景を惜しむだけでなく、変化を受け入れ未来へ進もうとする人々の声にも耳を澄ます。日本がかつて持っていたもの、見過ごしてきた歴史とは何か。坂齊清の写真とともに、遠い隣人の生活と希望を伝える旅の記録。政治の大きな言葉ではなく、そこで笑い、祈り、働く一人ひとりから国を見る視線が全篇を貫く。
『犯意』(初刊:2008年8月)

気を許した相手が本性を現したとき、普通の人はどこで犯罪の一線を越えるのか。職場、家庭、近所づきあいなど身近な場所で起きる十二の事件を、乃南アサの短編と弁護士・園田寿による法的解説の組み合わせで読み解く。短絡的な欲望から罪へ走る者、追い詰められて意に反して加害者となる者、何もしなかったことを問われる者。物語で当事者の感情をたどった後、どの行為がどんな罪に当たるのかを具体的に考える。人間心理と法律の両面から、日常に潜む「犯意」を照らす異色の犯罪小説集。小説を楽しみながら刑法の考え方にも触れられ、ニュースの見方まで少し変える実践的な読み物でもある。
『ニサッタ、ニサッタ 上』(初刊:2009年10月)

勤め先の社長が姿を消し、片貝耕平は突然職を失う。再就職はうまくいかず、派遣や日雇いの仕事を転々とするうち、住まいも人間関係も少しずつ失っていく。努力すれば立ち直れるという言葉さえ遠く、都会の片隅でホームレス寸前まで追い詰められる耕平。それでも、人との偶然の出会いと、アイヌ語で「明日」を意味するニサッタという言葉が、消えかけた希望をつなぎ止める。社会の網からこぼれ落ちた青年が、自分の足場を求めてもがく姿を通して、働くことと生きることの厳しさを描く長篇上巻。景気や雇用の変化が個人の尊厳をどう削るのかを、耕平の転落する足取りに沿って切実に伝える。
『ニサッタ、ニサッタ 下』(初刊:2009年10月)

新聞配達で借金を返し、ようやく生活を立て直しかけた耕平は、故郷の北海道・斜里へ戻る。しかし仕事は簡単には見つからず、待っていたのは過去の自分と向き合う日々だった。そこへ沖縄から武田杏奈が現れ、遠く離れた土地から来た二人の人生が交わり始める。スーパーで正社員になる機会が見えた矢先、思わぬ事故が再出発を揺さぶる。明日は本当に今日よりよくなるのか。失敗を重ねても人との縁を手放さず、自分の居場所を作ろうとする青年の歩みを、北の大地の風景とともに描く長篇下巻。北海道と沖縄という土地の違いも交え、明日を信じることがきれいごとではないからこその強さを描く。
『自白 刑事・土門功太朗』(初刊:2010年3月)

昭和四十年代。刑事・土門功太朗は、派手な科学捜査ではなく、自分の足で稼ぐ聞き込みと経験、容疑者の心を読む取り調べで事件を追う。谷底で身元不明の全裸女性が見つかり、残された首飾りだけを手がかりに犯人へ迫る「アメリカ淵」をはじめ、時代の空気を映す四つの事件を収録。人はなぜ嘘をつき、どの瞬間に本当のことを話すのか。頑固だが被害者の無念を置き去りにしない土門が、同僚と粘り強く証拠を積み重ね、閉ざされた口から自白を引き出す。刑事の勘と情熱を描く連作警察小説。昭和の町並みや捜査手法を細やかに再現し、事件の謎とともに時代を歩くような読み味を楽しめる。
『禁猟区』(初刊:2010年8月)

警察官の犯罪を内偵する警視庁警務部人事一課調査二係。女性監察官・沼尻いくみは、同じ組織で働く者を疑い、密かに証拠を集める孤独な任務へ挑む。ホストクラブへ入れあげた女性警察官が、借金を抱えた少女の情報を利用して親から金を脅し取っている疑いが浮上するが、身内の捜査には特有の圧力がつきまとう。後輩を洗い、時には先輩を挙げなければならない。正義を守る側の人間が罪へ踏み込む瞬間と、それを追う監察官の葛藤を描く四篇の連作警察小説。警察への信頼を守るため同僚を追うという矛盾が、いくみの職業意識と私情の双方を厳しく揺さぶる。
『地のはてから 上』(初刊:2010年11月)

明治から大正へ移る頃、幼いとわは家族とともに北海道へ渡り、さらに人の暮らしもまばらな知床の地へ入る。逃げるように故郷を離れた一家を待っていたのは、厳しい寒さ、飢え、病、開拓の重労働だった。豊かな自然は美しい一方、少しの油断も命取りになる。大人たちの事情に翻弄されながら、とわは働き、生き延びる術を身につけていく。名もない開拓民、先住の人々、流れ着いた者たちとの出会いを通して、一人の少女が大地に根を張ろうとする姿を描く歴史長篇上巻。開拓の美談に隠れがちな女性と子どもの労苦を、とわの目を通して具体的な生活の手触りへ戻している。
『地のはてから 下』(初刊:2010年11月)

知床の過酷な開拓生活で家族を失い、母の再婚によって居場所を揺さぶられたとわは、やがて故郷を離れて働きに出る。小樽の町で奉公し、さまざまな身分や境遇の人と出会う中、彼女は自分で生き方を選ぶ強さを身につけていく。土地を奪われた人々との関わりや、胸に抱いた淡い思いも、とわに北海道の歴史の複雑さを教える。家族とは、生まれた土地とは何か。明治から昭和へ続く時代の波を受けながら、知床から歩き出した女性の生涯と北の大地の変貌を描く歴史長篇下巻。一人の女性の歩みを追うことで、開拓の成果だけでなく、その陰で失われたものにも静かに光を当てる。
『地球の穴場 仙人の村から飛行船まで』(初刊:2012年7月)
雲南のシャングリラ、杭州と紹興、青海や中国東北部、四川。沖縄、オホーツクの農場、九州の列車、タスマニア、ケニア、そして東京上空を飛ぶ飛行船まで。観光名所だけでは見えない「穴場」へ足を運び、その土地の食、暮らし、働く人々と出会う紀行エッセイ。予定どおりに進まない移動や、初めての味、思いがけない会話が、ガイドブックにはない旅の表情を開いていく。遠い土地にも日常があり、近い場所にも知らない世界がある。好奇心旺盛な視線と写真で地球の広さと人の温かさを伝える一冊。珍しい場所を紹介するだけでなく、旅する自分の思い込みがほどける瞬間を率直な文章で分かち合う。
『新釈にっぽん昔話』(初刊:2013年11月)

「さるかに合戦」「花咲かじいさん」「一寸法師」「三枚のお札」「笠地蔵」「犬と猫とうろこ玉」。誰もが知る昔話を、大人の目で読み替えた六つの物語。善い者は必ず報われ、悪い者は罰を受ける――そんな分かりやすい教訓の裏へ回ると、登場人物の欲や寂しさ、ずるさ、意外な事情が見えてくる。語り継がれてきた筋立てを生かしながら、現代にも通じる人間関係と心理を描き、懐かしい物語を新鮮なドラマへ変える。子どもの頃には気づかなかった可笑しみと苦みを味わえる、大人のための昔話集。原話への敬意を失わず、脇役や悪役にも事情を与える新解釈が、昔話の世界を立体的によみがえらせる。
『それは秘密の』(初刊:2014年8月)

美容整形を選んだ人、少年の目を引く美しい脚、暗闇でそっと握られた手、隣室から聞こえる不可解な音、どうしても仕事のできない部下。身近な場面から、誰にも説明できない感情が立ち上がる九つの物語。恋とも友情とも呼べない思い、口にすれば壊れてしまう関係、自分でも認めたくない欲望。それぞれの「秘密」は人を守る殻であると同時に、孤独を深める影にもなる。人の心はなぜ思いどおりにならないのか。名づけられない愛情と日常の小さな謎を、温かさと不穏さを交えて描く短編集。驚きのある筋立ての奥に、誰かを完全には理解できなくても寄り添おうとする眼差しが残る。
『水曜日の凱歌』(初刊:2015年7月)

一九四五年八月十五日、水曜日。十四歳の鈴子は敗戦を迎え、住まいを転々としながら母と生き延びようとする。母が得た仕事は、占領軍のために設けられた施設での通訳だった。そこには生活のために身体を差し出す女性たちがおり、鈴子は大人たちが語らない戦後の現実を目にする。昨日までの正義が一夜で変わる中、母はどう暮らしを立て直し、少女は何を信じればよいのか。敗戦直後の東京を思春期の視点から見つめ、国家の決定に翻弄された女性たちの声と、焼け跡から始まる再生を描く歴史長篇。声を残しにくかった女性たちの暮らしを少女の戸惑いとともに刻み、戦後史を身近な物語として手渡す。
『旅の闇にとける』(初刊:2015年8月)

異国の夜道で感じる心細さ、言葉が通じない場所で差し伸べられる手、予定を外れた先で出会う忘れがたい風景。世界各地を旅した著者が、移動の途上で味わった恐れと驚き、人の親切を物語る紀行エッセイ。旅は日常から解放してくれる一方、自分の思い込みや弱さも容赦なく映し出す。闇に紛れて見知らぬ町の一部になったとき、遠い国の人々が急に近い存在へ変わっていく。観光案内では拾えない土地の匂いと、偶然の出会いが残す余韻を通して、旅することの怖さと豊かさを描いた一冊。失敗や危険も隠さない率直な語りから、知らない場所へ身を置くことが人の感覚を開く過程が伝わる。
『最後の花束 乃南アサ短編傑作選』(初刊:2015年9月)

恋人を追って大阪へ移る愛人、友人の婚約者へ思いを募らせる女性、伝統を守る提灯職人の妻、見違えるように変身した同僚。恋と嫉妬に心を奪われた人々が、日常の境界を越えていく十一篇を精選した短編傑作選。愛されたい、選ばれたいという願いは、ときに相手の人生を奪っても止まらない執着へ変わる。最後に差し出される花束は祝福か、それとも別れのしるしか。初期からの多彩な作品を通して、女性心理の揺れと、平穏な暮らしに潜む悪意を鮮やかに描く心理サスペンス・アンソロジー。著者の創作の歩みも感じられる選篇で、時代が変わっても変わらない人の欲望と孤独が浮かび上がる。
『美麗島紀行』(初刊:2015年11月)

台湾には、まだ知らない隣人の顔がある。著者が各地を歩き、人々と語り、食卓を囲みながら、島の歴史と現在を描く紀行エッセイ。日本人の友人の妹と結婚した考古学者、日本統治時代を複雑な思いで振り返る古老、零戦乗りを祀る人々。台南、花蓮、基隆、新竹など土地ごとの記憶に耳を澄ますと、日本と台湾が結んできた親しさと摩擦が浮かび上がる。美しい風景や食文化だけでなく、過去を背負って生きる人の言葉を丁寧に記録し、近くて遠い島の素顔へ迫る台湾紀行。著者自身が撮影した写真も、文章で出会う人々と土地の表情を補い、旅の時間を鮮やかによみがえらせる。
『岬にて 乃南アサ短編傑作選』(初刊:2016年2月)

かつての恋人の故郷を訪ねる女性、雪国で孤独を深める外国人の妻、整形をめぐって揺れる母と娘、夫の子を身ごもった愛人へ会いに行く妻。人生の岬に立ち、後戻りできない選択を迫られる人々を描いた十四篇を精選する短編傑作選。愛情、家族、異文化、老い。日常の下に隠れていた感情が、ある出会いや別れによって一気に姿を現す。岬の先に待つものは救いか、さらに深い孤独か。さまざまな年代の女性の転機と人間の危うさを、鋭い心理描写で切り取ったアンソロジー。既刊から選び直された作品が新しい響きで並び、長篇とは異なる著者の切れ味をまとめて味わえる。
『すずの爪あと 乃南アサ短編傑作選』(初刊:2016年8月)

家族が一つになれない様子を見つめる猫、不倫に疲れて故郷へ戻る女性、嗅覚を失った男と彼が出会う女、昔の恋人へ送る電子メール。人と人の間に残る小さな傷とぬくもりを描いた十一篇を精選する短編傑作選。分かり合っているつもりの家族にも秘密があり、終わった恋にも消えない感情がある。季節の光や匂い、動物の気配を繊細に映しながら、出会いと別れが人生へ刻む「爪あと」をたどる。怖さだけでなく、傷ついた者が再び歩き出す温かさも味わえる人間ドラマ・アンソロジー。人間以外の視点や感覚も取り入れた作品群が、言葉だけでは届かない関係の機微を豊かに伝える。
『犬棒日記』(初刊:2018年3月)

犬も歩けば棒に当たる。ならば人が一歩外へ出れば、どんな光景に出くわすのか。買い物、散歩、電車、食事の途中で著者が見かけた、気になる人々と言葉を日記のように書き留める。本人には何気ない仕草でも、観察する側の目に映れば、滑稽で、不可解で、ときにぞっとする短い物語になる。見知らぬ人の事情を勝手に想像する面白さと、他人から見れば自分もまた奇妙な存在かもしれないという可笑しみ。日常の一場面を鮮やかな人間ドラマへ変える、鋭くユーモラスな観察エッセイ。短い文章の余白には、見知らぬ相手にも続きの人生があるという想像力と、街を歩く愉しさが広がる。
『六月の雪』(初刊:2018年5月)

声優になる夢に破れ、三十二歳で将来を見失っていた杉山未來は、祖母・朋子と東京で暮らしている。入院した祖母が、生まれ故郷の台湾・台南へ帰りたいと漏らしたことから、未來はわずかな記憶を頼りに祖母の家を探す旅へ出る。現地の若者たちに助けられて古都を歩くうち、日本統治時代と戦後の悲劇、台湾を離れた日本人の涙を知っていく。祖母の過去をたどる七日間は、立ち止まっていた未來自身の心も動かし始める。海を越えた家族の記憶と新しい人生の兆しを描く感動長篇。歴史を知ることが祖母を知り、自分を知ることへつながる過程を、台南の光と人情の中で爽やかに映す。
『チーム・オベリベリ 上』(初刊:2020年7月)

明治十五年、女学校を卒業した二十三歳のカネは渡辺勝と結婚し、和人たちがオベリベリと呼び始めた北海道・十勝の原野へ渡る。理想を掲げる開拓団「晩成社」の若者たちは、新天地で農業を根づかせようとするが、厳しい寒さと未経験の土地が容赦なく立ちはだかる。先進教育を受けたカネも、妻という役割にとどまらず、仲間と暮らしを作るため知恵を絞る。実在の開拓者たちを基に、希望と現実の間で奮闘する若者と、一人の女性のたくましい選択を描く歴史長篇上巻。自然を征服する物語にせず、先住の文化と土地への畏れも描くことで、開拓の理想を問い直している。
『チーム・オベリベリ 下』(初刊:2020年7月)

オベリベリでの暮らしはなお厳しく、初めての豊作を喜んだのも束の間、借金返済のため収穫を差し出さなければならない。入植した十三戸は六戸へ減り、開拓団「晩成社」の中心人物三人の間にも不協和音が流れ始める。それでもカネは、家族と仲間の生活を支え、北の大地に根を下ろそうと働き続ける。自分たちの代が捨て石になる覚悟は、未来へ何を残すのか。美しくも苛烈な十勝の自然の中で、理想を試される開拓者たちと、時代を生き抜く女性の姿を史実に基づいて描く歴史長篇下巻。勝者の歴史だけでは見えない失敗と忍耐を記録し、帯広の礎を築いた名もない人々へ光を当てる。
『美麗島プリズム紀行』(初刊:2020年11月)

前作から五年、著者は再び台湾の東西南北を歩き、歴史と人々の暮らしを多面的に見つめる。日本人として米軍の爆撃を受けた記憶を語る姉弟、日本人にも台湾人にも複雑な感情を抱く外省人の老人、再建された神社で和装の結婚式を挙げる男女。歩き、語り、食べて初めて見える島の素顔を、著者自身の写真とともに描く二十三篇。単純な親日という言葉には収まらない記憶の層をプリズムのように映し出し、近くて遠い隣人への理解を深める台湾紀行エッセイ第二集。多彩な証言を並べることで、同じ歴史にも立場ごとの見え方があると示し、旅する側の理解を深める。
『いっちみち 乃南アサ短編傑作選』(初刊:2021年2月)

家族の不祥事で故郷を離れ、感染症流行のさなかに帰郷する女性。母方の家業に受け継がれた秘密を知る息子。事故で両親を失い、ある家へ迎えられた不思議な従妹。恋から始まり家族になったはずなのに、近づくほど分からなくなる人間関係を描く八篇の短編傑作選。温かさと怖さ、信頼と疑いが一つの食卓に同居し、何気ない家庭のルールが人生を縛る。家族なら理解し合えるという思い込みを静かに揺さぶり、「人間」という最大の謎へ迫る文庫オリジナル・アンソロジー。選ばれた作品の年代や語り口はさまざまでも、近しい関係ほど謎が深いという主題が一冊を貫く。
『続・犬棒日記』(初刊:2022年2月)

買い物へ出たとき、公園を歩くとき、電車に乗るとき、食事をするとき。著者が日常で見かけた「あの人」と、近くで起きた不可解な出来事を卓越した観察眼で描く『犬棒日記』の続編。奇妙な振る舞いにも本人なりの事情があるのかもしれないと想像を広げると、短い場面から一人分の人生が立ち上がる。世界を覆った感染症の流行下で変わった距離感や暮らしも記録し、忘れたくない時代の空気を残す。可笑しさと少しの怖さが同居する人間観察エッセイ。変わった人を笑うだけで終わらず、その背後の事情を思う視線が、街の風景へ温かな陰影を添える。
『緊立ち 警視庁捜査共助課』(初刊:2023年9月)

警視庁捜査共助課で、行方をくらました被疑者を追う二人の女性警察官。川東小桃は七百人を超える手配写真を記憶し、雑踏から対象を見つけ出す見当たり捜査官。佐宗燈は、わずかな手がかりから逃亡先を割り出す広域捜査の刑事だ。少女時代の事件をきっかけに燈へ憧れた小桃は、奇妙な縁で同じ課に入り、互いに私生活の悩みも抱えながら実績を重ねる。やがて凶悪犯の「緊立ち」が入り、全員に出動命令が下る。記憶と執念で人波から犯人を追う、新たな警察小説。男性中心の組織で力を発揮する二人の友情と、家庭では揺れる等身大の姿が、追跡劇に人間味を添える。
『マザー』(初刊:2024年8月)

独立した青年が、感染症流行の間に身内を相次いで亡くした実家へ戻る「セメタリー」。医師を辞めて離婚した兄から、母の一周忌を前に再婚の知らせが届く「ワンピース」。娘が嫁いで一人になった高齢女性が華やかに変わっていく姿を、マンション管理人が見つめる「アフェア」。子どもや周囲から「母」と呼ばれてきた女性たちにも、家族の知らない願い、恋、後悔がある。母親という役割の陰に隠された一人の人間の本当の顔を、驚きと共感をもって描く家族小説短編集。家族の記憶にある母と本人が生きた現実のずれを見つめ、役割の外で女性を知り直す驚きを届ける。





